2012年1月2日月曜日

風評被害〜節電〜絆


昨年の3.11以来、NHKをはじめとするマスコミでさんざん叫ばれ、それに影響された多くの日本人が事あるごとに口にする言葉となった「風評被害」「節電」「絆」の3語。しかし、これら3語に対しては、マスコミの宣伝通りに素直に受け取る人と、受け取れない人に、日本は分断されてしまった。
3.11に関して、地震や大津波が自然災害であることに異議はないが、福島第一の原発震災に関しては、これは絶対に人災である。悪人探しや、罪を糾弾することばかりに目が向くのはよいこととは言えないが、少なくとも、最低限の責任と原因の追及はあってしかるべきである。ぶらぶら猫が3.11以後に驚き、絶望したのは、きちんとした責任と原因追及もなしに、「(たとえ毒物であっても)生産者や地域経済のために食べろ[風評被害]」「(電気は足りているのに)原発がないと大変だから節電に励め[節電]」そして「国の一大事なのだから、とにかく一致団結して忍耐強く前へ進め」という空気が支配してしまったことである。
この国は、先の大戦後も冷戦のどさくさに紛れて、きちんとした責任処理を怠り、あいまいなまま戦後史を歩んできた。今また、あいまいなままに、漠然とした「絆」スローガンとともに、おかしな道を歩もうとしている。数年後、この道が間違いだと築いた時、大戦後に「軍部にだまされた」と言うのと同じように、人々は「だまされた」と言うのだろうか?

2011年6月21日火曜日

放射能と紫煙

 6月末、夏を間近に控えたこの季節が、ぶらぶら猫は一番好きだ。日曜日が好きだからこそ、その前の土曜日が好きなごとく、夏が大好きなぶらぶら猫は、同じ理由で、夏よりも、その前の初夏、春が好きなのである。梅雨で雨の日が多いのは残念だが、それでも梅雨の合間の晴れの日には、「仕事」である、ぶらぶら散歩に繰り出す。
 しかし、今年は事情が大いに変わってしまった。それは、福島第一原発事故による放射能汚染である。首都圏の大気中の線量は随分下がったとはいえ、地表付近にはホットスポットが点在し、気分よく散歩する気になれない。屋内に閉じこもるよりも外にいることの方が好きなぶらぶら猫も、なんとなく外に出かけたくない気分になってしまうのだ。
 ところで、最近、東京の街歩きを憂鬱にしている元凶が、もうひとつある。紫煙である。オフィスでの禁煙が厳しくなり、喫煙者がビルの裏扉などで吸いだした。ビルの裏扉は、ぶらぶら猫がぶらつくのが好きな、裏路地に面していることが多い。結果、裏路地を歩いていて紫煙に遭遇する機会が、増えてしまったのだ。
 放射能と紫煙と、どっちが体に悪いかなんて、くだらない議論をしていた学者がいたが、ぶらぶら猫には、どっちもごめんである。

2011年5月28日土曜日

菅降ろしが成功しても…

 福島第一原発事故収束の見通しもたたず、震災復興もまだまだだと言うのに、永田町だけは、くだらない足の引っ張り合いをしている。菅内閣不信任決議案が来月早々にも提出される見通しで、小沢をはじめとする民主党議員の相当数も賛成に回って可決される可能性もあるとか。
 そうすると解散、総選挙になるが、最近の世論動向だと、自公政権復活の可能性が高い。そうなってしまうと、脱原発も、電力改革も、すべて停滞してしまうだろう。
 菅内閣は許しがたいが、自公復活はもっと許しがたい。かと言って、現在の日本で、民主でも自公でもない第3勢力は、新自由主義で富裕層を豊かにするみんなの党、減税で富裕層を豊かにする減税日本、君が代強制など時代錯誤の専制支配的な維新の会など、もっともっと許しがたいものばかり…。
 本当に日本にいるのが嫌になり、どこか政治亡命させてくれないかとも思いたくなる。かくなるうえは、基地問題で誠意を示さない日本なんか捨てて、沖縄独立しないかな。

2011年5月26日木曜日

東芝製品をボイコットしよう!

 国が定めた放射能の年間20mシーベルト基準から、福島の子どもたちを救うための活動に積極的に参加していた俳優の山本太郎氏が、出演予定だったドラマから降板させられたという。そのドラマは東芝日曜劇場で、山本の反原発的な活動が降板理由だと取りざたされている。
 その昔、忌野清志郎の反原発ソングが、発売元の東芝EMIから発売中止になったこともあった。
 原発を日本からなくしたいと願っている人は、ぜひとも東芝製品のボイコットを呼びかけてほしい。人気のREGZAもだめだ。原発とテレビは関係ないだろうと思うなかれ。東芝だって、原発と関係のないドラマから山本を排除したのだから、我々も東芝のテレビを排除しようではないか?
 一般の市民が社会に向かって非暴力的に意思表示する方法はいくつかある。1つはもちろん選挙。1つはデモ。そして、今1つがボイコットだ。自由主義経済では、企業の最大の敵は、物やサービスが売れないことである。東芝が、忌野や山本の活動を、そうやって妨害するのなら、我々も、東芝の製品を買わないことで、妨害してやろうではないか? そして、原発を望まない人々の力を見せつけてやろうではないか?

2011年4月24日日曜日

節電と風評被害報道についての違和感

 東北地方太平洋沖地震による福島第一原子力発電所事故が発生して以来、人々が口に、頻繁に耳にする言葉に「節電」と「風評被害」がある。
 節電は、震災による東京電力の電力供給能力の低下に対処するため国民に呼びかけられ、東電管内では、実際、3月下旬に計画停電が実施されたこともあって、その必要性が実感され、まるで「節電しないのは非国民」という印象を受けるほど広がっている。なかには、被災地外の人が被災地の人々のために協力できることは「ささやかな募金と節電協力です」といった、まるで、節電は被災地復興のためになるかのような言葉も聞いた。しかし、本当にこれほどの節電が必要なのだろうか?
 もちろん、私はいわゆる節電そのものに異議を唱えるものではない。エネルギーの無駄使いをしないことは大切なことであるし、震災が起きる前から、できるだけ実践してきたつもりだ。それが、今回の震災、とくに原発事故が起きて以来、急に節電が美徳というより、国民の義務のごとく喧伝され、もともとささやかな生活を営んできた庶民までが「節電、節電」と頑張っている様は、「欲しがりません勝つまでは」の時代を見ているようで、薄気味悪い。止まったままのエスカレーター、薄暗い駅構内など、明らかに非常時を思わせる節電施策を見ていると、一体、いつまでこの節電を続ければよいのか? もっと健全な方法はないのかと疑問に思う。
 メディアのニュース等では、枕言葉のように「原発事故による電力不足〜」と流される。しかし、東電の原子力発電所17基すべてを止めても、電力供給に問題がないことは、既に衆目の認める事実といってよい。問題は、原子力以外の発電所がどれだけ被害を受けて、復旧にどれだけ時間がかかるのかだが、これがいまいちはっきりしない。
 何のための節電なのか? 欧米と比較すれば、1人あたりのエネルギー使用量はまだまだ慎ましい日本の生活者に、さらなる忍耐を強いてまで、節電を訴えかける姿勢は、「原発がなければこれだけ困りますよ」というプロパガンダに聞こえても仕方ないだろう。
 もう一つ、よく言われる「風評被害」である。福島第一原子力発電所から遠くない福島や関東地方のの農産物を消費者が敬遠し、その市場価値が激減したことをもって、メディアは盛んに風評被害だと説く。そして、即売会などで、困っている当該地域の農家の産物を喜んで購入する消費者の様子を流し、風評に惑わされるなと言う。
 しかし、危険性のあるものを敬遠し、避けるのは、消費者の正当な防衛反応ではないだろうか? 原発事故による放射能流出と拡散範囲を考えれば、福島はもちろん、関東一円にかけての農産物に危険性ありと考えるのは当然だろう。きちんと検査済みなので大丈夫というが、検査体制が万全とはいえないし、この国は汚染の深刻さに合わせて平気で検査基準を緩めるような国だ。放射能の健康に与える影響についてもはっきりしない部分も多く、消費者が大事をとって、福島からできるだけ遠い地域の農産物を選ぶのは当然の志向であるし、権利であると思うのだ。とくに子どもや若い世代は、用心に越したことはない。
 丹誠込めて育てた農産物の市場価値を失ってしまった農家は気の毒だと思う。しかし、悪いのは、それを敬遠する消費者ではなくて、原発事故であり、原発の存在そのものなのだ。メディアが盛んに流布させる「風評被害」という言葉を聞いていると、安全なものが欲しいという消費者に責任を転嫁し、原発を設置、推進してきた者から批判の目を逸らそうとしているかのように感じる。

2010年9月1日水曜日

素直に小沢立候補を批判する気になれない理由

 鳩山前首相の調停にもかかわらず、結局、小沢前幹事長は民主党代表選(すなわち首相選)に立候補することになった。普通に考えて、非常識な、許されざる暴挙であろう。わずか3カ月前に幹事長を辞任したばかりであり、「政治とカネ」スキャンダルのみそぎが済んでいるとも思われない人物が政府与党の代表すなわち首相の座を狙うなどということは考えられないことだ。もし小沢が代表選に勝利して首相になれば、自民党をはじめとする節操のない野党はここぞとばかりに政治とカネの問題を責め立てて、国会は重要審議そっちのけになってしまうだろうし、市民団体とやら(極右系の団体らしいが、なぜかメディアは公にしない)の申し立てに屈して検察審査会が小沢起訴の判断を下すかもしれない。また、わずか1年ちょっとの間に首相が3人も替わる事態も日本の立場を弱めるだろう。
 このように、小沢の立候補はどう考えても常人にはありえない判断であるにもかかわらず、小沢が立候補を決断してくれたことに対する期待も捨てられない。それだけ、現在の菅政権が続いてもらっては困るという気持ちが強いからだ。菅直人は変わった。もはや市民運動家の彼ではない。菅政権とは、前原、野田、玄葉といった新自由主義者たちの政権だ。このまま菅政権が続けば、間違いなく日本はとんでもない方向に行く。彼らの自由にさせないためにも、小沢の破壊力に期待せざるを得ない、悩ましい立場に、日本の良識ある人々は立たされていることと思う。

2010年8月25日水曜日

もう家族幻想は捨てよう

 「消える老人」「児童虐待」など、家族をめぐる事件が世間をぎわせている昨今である。そして、そのたびにテレビなどマスコミには、「日本の社会がここまで劣化してしまったか」と嘆き、「美しき良き日本の家族制度」への郷愁のコメントに溢れている。
 しかし、それはほんとうに「劣化」なのであろうか? 家族の形態が時代とともに変化しただけではないのか? 社会が豊かになり、発展するとともに、より個人が自由を獲得していくのは当然の流れではないだろうか? 老若問わず、現実に1人世帯が多数派となりつつある現代日本において、いつまでも旧来の家族制度にしがみつき、それに合わせた制度を維持し続けていることが、多くの不幸を生んでいることを直視すべきだ。
 例えば少子化対策の優等生として語られるフランスについて、その成功理由として手厚い子育て支援が取り上げられることが多い。もちろん子育て支援も少子化対策として有効ではあろうが、フランスの成功理由の大きな部分は、自由な婚姻制度によるものだ。同棲婚、シングルマザーといった、いわゆる「正式な婚姻」以外の家族のあり方に対する社会と制度の許容が、少子化をストップさせた成功理由だと思う。その証拠に、今や、フランスは婚外子の割合が5割を超えている(日本はわずか2パーセント)。
 日本ももっと多様な生き方を許容する制度に改めるべきだし、欠点だらけの戸籍制度は廃止すべきだ。このように言うと保守的な言論人からは「制度を緩めると、家族が崩壊してしまう」という声が聞こえてきそうだが、家族などとっくに崩壊しているのだ。
 過去の郷愁にしがみついて現代の個人を不幸にするよりも、現実を直視して、少しでも多くの個人を幸せにすることが大切なのではないか?